「必ず、……必ず、あなたを守ります」
僕はそう告げました。
僕は、この世界の自分など信用してはいませんでした。
この夢の中の僕ではなく、本当の荒井昭二である自分が、さんをこの狂った世界から救い出す。
それはあなたにと言うよりも、自らに言い聞かせるように口にしたのです。それでも目の前の人は肯いてくれました。
うん、とその人はもう一度肯き、そして静かに続けます。
「ありがとう、荒井くん」
……こころが、冷たい翳りを一瞬帯びました。
きっとさんには、今僕が言った言葉がこの世界の荒井昭二の台詞に映っているのでしょう。
あなたが呼ぶ 「荒井くん」 とは、僕ではない僕を指しているのでしょう。
本当の僕は、今目の前にいるというのに。
それを思うと微かにズキリとした痛みが胸に走りましたが、そんなのはどうでもいい事でした。
それよりも、この状況を脱する事。それを考える事が先決だったのです。
「──まずは、これからどうすればいいかです。校舎のあちこちにクラブのメンバーが待機している筈ですが、基本的には配置された場所に留まっています。何かが起こらなければ、其処から動く事はないでしょう」
「じゃあ、上手くすれば、誰とも鉢合わせしないで外に出られるのかな」
「いいえ。それは無理があります。僕たちのリーダーが見張っていますから、校門を出ようとした時点でアウトでしょうね。あまり想像したくない事態に陥る可能性が高いと思います」
「そっか」
さんは少し首を傾げ、そのまま続けました。
「そうなると、最低限そのリーダーの人をどうにかしないといけない……のかな」
「ええ。ですが、今のところ彼らの最大の標的は、僕たちではありません。僕らに目を向けられる前の今なら、不必要な面倒事も少なくて済むでしょう」
本当にそうだろうか。
僕は内心で自問しました。殺人クラブ内で事前に練られていたプランというものの記憶を僕は探ります。
確かにメンバーの配置場所、何かあった時の連絡法といった幾つかの取り決め事は自分の中にあり、それを知っている事は有利であるのに違いありません。
しかし、問題は山積みでした。
日野さんに対する勝算が絶対的に薄いということ、仮に他のメンバーに出くわしてしまった場合の対処といったものは勿論、更には、時間の問題もあったのです。
今回の 『 獲物 』 であるあの新聞部の一年生が、一体いつまで持ち堪えてくれるか、その可能性は未知数でした。
彼が生きてくれている間しか、僕たちに時間は与えられないのです。
もし、彼が早々にこのゲームを退場してしまったら──。
僕はギュッと拳を握り締めると、口に出して言いました。
「急ぎましょう。いつ此処に誰か戻ってくるとも限りません、この部屋をまずは離れた方が良さそうです」
「うん、そうだね。……荒井くん」
「はい?」
「無事にここ出たら、また映画の話とか、したいね」
「……そうですね。僕もそう思います」
「あと、いつも寄るコンビニで新商品のお菓子出てたんだ。無事に出られたら、買ってって何処かでお祝いに食べようか」
「ええ」
「そうなると、あんまり遅くならないうちに帰れればいいね。……まあ、もう既に充分深夜なんだけど」
「ふふ、そうですね」
「……荒井くん」
「はい」
僕はどれにも相槌を打ち、微笑んでいました。
さんが言う言葉は、どれもごくささやかなもので、それは僕自身そうなればいいと思うものでした。
だから、最後の呼びかけにも僕は静かに、次なる音を待ち受けたのです。
あなたは穏やかな顔のまま、続けました。
「わたしが駄目だった時も、荒井くんは生き延びなよ?」
──なんて、残酷な言葉なのでしょうか。
僕は肯く事が出来ずにただ、沈黙しました。
けれど、それもほんの一瞬です。
さんを必ず守ると、そうさっき言ったばかりではないか。僕はそう思い起こし、頭を振りました。
この本当の自分こそが、目の前の人を正常な世界へ導くのだ。
そう繰り返してあなたに近付こうとした時にしかし、急にその声は囁かれたのです。
「本当にあなたが、さんを守れるのですか」 と。
僕は驚き、思わず自らの耳を両手で塞ぎました。
声はまるで、内耳に直接響くかのように聞こえた気がしたのです。
僕の様子を訝しんださんが呼びかけていましたが、声はそのまま続けられていました。
黙って聞いていれば、随分と自惚れていますね。
平和な世界でのうのうと生きてきただけのあなたが、この殺人クラブに立ち向かおうだなんて。思い上がりも甚だしい。
それだけならまだしも、あなたがさんを守る?
……笑わせないでほしいですね。大体、彼女は僕の事を信用してくれているんですよ? あなたの事ではなく、この僕の事を。
同じ世界に、二人も同じ人間は必要ないんです。
大人しく消えて下さい、別の世界の荒井昭二。
「黙れ」
「…………、えっ?」
さんが驚いた様子でこちらを見上げましたが、僕はあなたを見ることすら出来ません。
気付けば膝を床につき、塞いだ両の耳に続けられる声に激昂していました。
直ぐに理解したのです、声の主がこの世界の僕であることを。そいつに向かって、僕は僕自身に怒りを向けたのです。
狂った世界の僕。
お前なんかに、そんな事を言われる筋合いはない。
こんな世界なんか無ければ、こんなクラブなんか存在しなければ、お前なんか居なければこんな事にはならなかった。
さんをこんな歪んだ世界の僕に託す事など出来ない、僕は彼女を連れていく。
──あなたには、あなたの世界の彼女がいるでしょう。
そんな事は関係ない、僕は今、目の前にいるこの人を助けたい、お前には絶対に渡さない。
──言いますね。ニセモノの分際で。
「ニセモノはそっちの方でしょう!!」
硬直したかのように声も出ないままのさんの前で歯噛みしながら叫ぶと、もう一人の僕は小さく短く、声を漏らして嗤って続けます。
──いいえ。この世界の僕からすれば、あなたの方こそがニセモノなのです。
僕なら、今までこの世界を生きてきた僕なら、この人を最後まで守りきることが出来る。
黙れ黙れ黙れ、お前を僕は認めない。
例えさんが本当の僕を見てくれなくても構わない、それでも僕はこの人を守る、お前になんか絶対に渡さない──!
僕は耳に両手を押し当てたまま、気付けば頭を床に押し付けていました。
もう一人の僕は、この時になって僕を身体から追い出そうとしてきたのです。
僕の夢だというのに、夢はいうことを聞かず、意識が消えかけそうになります。
歯を食い縛り、僕が必死に自分を保とうとして、どれ程経った頃でしょうか。
気付けばずっと聞こえていた声は消えていました。
そろそろと両手を離します。この世界の僕は姿を消したのか、何の声も聞こえませんでした。
「荒井くん、大丈夫……?」
ふと、その声で我に返ります。
見れば、さんが心配そうに此方を覗き込もうとしています。僕は苦笑いを浮かべ肯きました。
貴方に余計な心配を掛けてしまった、そう思いながら立ち上がります。
そうだ、こんな所でこうしている場合ではない。早く此処を離れなくては。
僕はさんの戒めをまず解こうと思い、あなたの目の前まで近付いて、そして……。
「……さん」
「うん」
「残念ですよ」
「え?」
その人は少しキョトンとしていましたが、僕はそれどころではありませんでした。
口が、自分の意思とは無関係に言葉を吐き出し始めたのです。
「あなたとは、もっと時間を掛けて関係を築いていきたかった……」
冷たい戦慄が背筋を駆け抜けました。
この世界の僕が、もう一人の僕が、夢の中の僕が、勝手に動き出していく。
僕の手はそっと、さんの両肩に置かれました。
壊れものを扱うかのような仕草でしたが、僕はこれから何が起きるのかを知り必死に声を出そうとしました。
けれど舌は思うように動かず、言いたい事とは違う台詞ばかりが次から次へと飛び出すのです。
「僕は……、先程言ったように卑怯な男です。決して誉められた存在ではないのは自分自身、よく判っているつもりですよ。悔しいけれど、この別の世界の荒井昭二ほど、僕は出来た人間ではありませんから」
僕は、顔をあなたに近付けていました。
正しく目と鼻の先にさんの顔があるのです。
急の事に戸惑った表情が、呼吸さえ忘れてしまったかのように息を詰めてこちらを見返していました。
「それでも、あなたを想う気持ちだけは、真っ当な人間と変わらず本物だと信じています。
ただ、彼と違って、こちらの世界の僕は目的のためなら手段を厭いません。あなたを奪われるわけにはいかないのです。
──だから」
大きく開かれたさんの目に映る僕の表情が、薄く哀しそうに笑いました。
「こんなふうにさんを手に入れなければならない事が、残念で仕方ありません」
「やめろおおおおおお!!!」
遂に僕自身が叫んだ時、けれど、もうこの世界の僕は暴走していました。
噛みつく様に口づけられて、ビクリと身を跳ねさせたさんに僕はもう一度叫ぼうとしました。
逃げてくれと、今の僕は本当の僕ではないのだと、早くしないと僕は──。
そして不意に、視界がブラックアウトします。
暴走した自分が、僕の意識を強引に遮断したと気付いた時にはもう、為す術はありませんでした。
その時最後に知覚したのは、もう一人の僕の声です。嗤っているようにも、泣いているようにも聞こえました。
けれど其れを判別する事さえままならなくなり、僕は意識を失ってしまったのです。
一体、夢の世界での時間はどれくらい過ぎたのでしょうか。
気付けば、僕は自分を取り戻していました。
のろのろと身を起こします。ひどく寒い、と思い自らを見下ろせば、汗で濡れたシャツが肌に張り付いています。
びっしょりと濡れたそれは、ひどく冷たくなっていました。
身体に纏わりつく汗の温度が、信じられないほどに下がっているのです。
目の回りそうな感覚。
頭の中に血が巡るのと同時に、何か痛みにも似たものがジワリと広がるのが判ります。
僕は……、遮断されていた間の自分の記憶を静かに探りました。
この世界の僕は、敢えて記憶だけは削除しなかったようです。寧ろ、僕に思い知らせるためにそうしたのでしょう。
この世界のさんは、この世界の荒井昭二のものなのだという刻印を見せつけるために……。
眩暈を感じて、自らの手で目を覆いました。
叫び出したい程の何かが自分の中で渦巻いています。ガクガクと、震えがずっと続いているのです。
涙が溢れて、止まりません。
ひゅうひゅうと、生温い風が細く開いた窓の隙間から忍び込んでいて。
それは僕の頬を撫で、あなたの髪を僅かになびかせます。
さんは未だ拘束も解かれないまま、椅子の上で身じろぎもしませんでした。
その人は、ずっと其処に居たのです。僕は震える手指の間から、その姿をようやく捉えたのです。
滂沱と流れる目からの水を床に垂らしながら、僕はそろそろと近付きました。
どうすればいいのか判らない、けれど、僕は失う事が恐かった。
あなたへと、震える手を伸ばします。
触れる事が躊躇われます。
これ以上この人を傷付けたくない、けれど、……それでも、僕は確かめないわけにはいかなかったのです。
そろりと、ほつれている髪を、その人の汗で湿ったそれを額から掬い上げようとした瞬間の事でした。
「…………あ……井、くん?」
不明瞭な言葉の切れ端が、それでも自分の耳に届いて僕は目を見開きました。
薄く伏せられていた目蓋が、スローモーションのような速度で持ち上げられます。そこから現れた瞳が、ぼんやりと僕を映したのです。
弾かれるように手を離し、後退ろうとして足が縺れ、僕は尻もちをつきました。
そんな僕を、まだ焦点が合わせきれていない目で見ていたあなたは見下ろします。
少ししてから、小さく弱々しく、それでもいつものように笑ったのです。
「ひどい顔。涙でぐしゃぐしゃだよ?」
僕は何を言うべきかまったく判りませんでした。
この世界の僕は、貴方にひどい事をしたのです。それなのに、それだというのに……。
思わず目を逸らそうとして、視界に、何かが散らばっている事に気が付きます。
僕が腰を下ろしていた椅子に立てかけておいた白い紙袋。
僕が立ち上がった時に横倒しになったらしく、中身が散乱しています。貴方がこの世界に足を踏み入れるきっかけになったもの。
実習用のプリントの束やテキスト、そしてB組の生徒で書き綴ったメッセージ入りの色紙。
デフォルメされて描かれたさんの絵が、色紙の中でにっこりと微笑んでいます。
こんなもののために……。
僕は目を閉じようとしました。
けれど不意に「違う」、という否定の言葉が浮かび上がります。
気付いてしまったのです、さんの見ているものが、僕の足元にある事に。
視線を辿って、ギクリと僕は身を凍らせました。
正確に言えば僕ではなく、この世界の僕が、です。
今まで静かに自分の中で僕を見ていた彼は、あなたが目で追ったものに気が付いて、急にワナワナと震え出したのです。
慌てて僕はプリントの束を引っ繰り返します。
そして直ぐに見つけたのです、僕が彼女に贈ったカードの包み、そして一緒に添えた手紙も。
「さん──」
愕然としながら、僕は、もう一人の僕はその人の名を呼びました。
あなたは、少しの間だけ沈黙し、けれどゆっくりと口を開いたのです。
「……荒井くんに貰った手紙、嬉しかったよ。だから、絶対置いていきたくなかった……」
知らず、頭が左右に振れます。
さんは、この世界の僕をも大切にしてくれていたのです。
それなのに自分は、僕を信じてくれていたあなたを傷付けてしまった。裏切ってしまった。
「ぁ……あ、ああ……っ」
僕は呻いて、思わず数歩、後退っていました。
足がふわふわとしていて、まったく感覚がありません。しかしそんな事は、もはや意識の埒外でした。
僕は、あなたを、傷付けてしまった。
「ぅ…………うわあああああああああああああああっ」
僕はその場から逃げ出しました。
何も考える事など出来ません。僕は、あなたから、この狂った世界から逃げ出したのです。
例え地の果てまで駆けても逃げられない事実から、さんから、僕は僕自身から。
全てを投げ打ち、出し得る力の限りを尽くして、僕は目の前の夢から逃亡する──。
闇雲に走って、校舎内を駆け抜け、……それでも、僕は来るべき場所に辿り着いていたようです。
鉄製の柵に手を掛けてゼイゼイと全身で激しい呼吸を繰り返す僕に、鮮やかな夏の空気を孕んだ風が吹きつけていました。
見れば空には星が幾つか瞬いており、しかし東の空が微かに白み始めています。
屋上です。僕がよく通っていた気に入りの場所であり、かつてさんとも訪れた事がある僕の屋上。
フラフラとした足取りでも、柵を越えるのはさほど難しいことではありません。
見下ろした世界は、とても静かに其処に佇んでいました。
薄れていく夜が、やがて来る朝に時間を譲り渡していくでしょう。
再び顔を上げれば、空にはまるで紺碧を湛えた海のように、どこまでも深い青だけがありました。
なんて清浄な色彩でしょう。そこへこの身を投じる事が出来たなら、そうする事でこの世界と決別出来たら。
気付けば僕は、嗚咽を漏らしまた泣いていました。
視界が涙でぼやけ、不鮮明な光しか認識できなくなっていきます。
僕は目を瞑りました。
「ごめんなさい……さん、あなたを守れなくて、ごめんなさい……っ」
決してその人に届く事のない言葉を、嗚咽とともに喉の奥から絞り出します。
それがこの世界の僕の、最後の言葉になりました。
屋上から落下していく間に再び開けた僕の目に映ったのは、遠くから見下ろしている鮮やかな青い空。
手を伸ばしても、掴もうとしても、もう届きそうにはありませんでした。
僕が辿り着くのはその鮮烈な青とは逆に、自らの血で赤く染まる地面なのです。
僕はそっと、微笑みました。
もうじき、この歪んだ夢から解放される。
けれど、と僕はこころの中で呟きます。
僕はこちらのさんに、何の償いもしないまま旅立ってしまった。その事を思うと深い悲しみが胸を潰しました。
必ず守ると、言ったのに。
僕は、あなたの事を思いました。
どうか願わくば、この夢の世界のさんが生き延びてくれますように──。
夢が閉じる前に見たこの世界は、あまりに眩しい朝を迎えました。
僕の身体から噴き出した赤がどんどん地面を濡らしていきます。
僕は、この世界の僕の身体を離れ、横たわる自分を見下ろしました。
まだ、かろうじて息をしていて、けれど喉に引っ掛かるようなひゅうひゅうという音を立てています。
彼は、首を動かす事も出来ないまま、目だけで僕を見上げて、口を動かしましたが、それだけでした。
音らしいものは何も出てこなかったのです。
僕は、僕の事を思いました。
彼は彼なりに、さんを大切に思っていたのです。そして彼はやはり、僕自身なのです。
もしこの僕がこの狂った世界に生まれていたなら……。
僕は少しの間、彼を見下ろしました。夢がだんだんと終わりを迎え、急速に眩しい世界は暗闇に沈んでいきます。
「……さようなら、荒井昭二」
横たわった彼は静かに目を閉じ、肯いたように見えた時には世界は閉ざされました。
もう僕は二度と彼と会う事はない。そしてあのさんにも。
夢か現実かわからない涙が、零れていきました。
一つ、またもう一つ。
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